事業承継M&Aを検討するオーナーにとって、会社売却は多くの場合、一生に一度あるかないかの出来事です。価格だけでなく、従業員、取引先、社名、今後の経営、そして自分自身の納得感まで含めて判断しなければならず、極めて重い意思決定になります。
一方で、仲介会社にとってM&A案件は、日常的に取り扱う業務です。もちろん、個々の案件に真剣に向き合っているとしても、構造としては、多数の案件、複数の売手、複数の買手候補と向き合いながら動いています。
この違いは、単なる経験値の差ではありません。事業承継オーナーと仲介会社は、そもそも置かれている立場が違います。そのため、何を重視し、どのように動くことが合理的かも、最初からずれやすいのです。
この点は、ゲーム理論的に見ると分かりやすくなります。オーナーにとっては一回限りの取引でも、仲介会社にとっては繰り返し現れる案件の一つです。両者が悪意なく動いていても、見ている景色が違いやすいのは、ある意味で自然なことです。
オーナーにとっては「一回限り」でも、仲介会社にとっては繰り返し現れる案件である
事業承継オーナーは、通常、自社の売却を何度も経験しているわけではありません。したがって、どのような進め方がベストか、何を先に決めるべきか、どの論点が、後になって買手選定や最終条件に大きく影響するのかについて、最初から十分な知見を持っているとは限りません。
これに対し、仲介会社は、日々、多数の案件を見ています。売手オーナーの迷いやすい論点、買手が反応しやすい条件、進みやすい案件と止まりやすい案件の違いについて、経験的に把握しています。
この非対称性がある以上、両者の合理的な行動は一致しません。オーナーは、自分にとって最も納得できる相手や条件、進め方を重視しますが、仲介会社は構造的に、成約しやすさの観点から相手や進め方を考えがちです。ここでいう成立しやすさには、スピード感、買手の熱意、条件のまとめやすさに加え、仲介会社と仲介契約を締結し、かつ十分な報酬を支払う相手であることも含みます。
もちろん、成立しやすい進め方と、オーナーにとっての「ベスト」が一致することもあります。ただし、常に一致するとは限りません。このズレを理解せずに進むと、オーナーは後になって「なぜこういう進め方になったのか」と違和感を持ちやすくなります。
両者は、同じ「成約」を目指していても、重視する論点が異なりやすい
オーナーが重視するのは、必ずしも価格だけではありません。もちろん価格は重要ですが、それと同じくらい、誰に承継されるのか、従業員の雇用や処遇はどうなるのか、会社の文化や取引先との関係は維持されるのか、どのような条件で引き継がれるのか、といった点も大きな論点になります。
他方で、仲介会社は、仕事の性質上、案件が前に進むかどうかを重視せざるを得ません。買手が関心を持ちやすいか、価格帯がまとまりそうか、条件が大きく拗れないか、一定期間内に成約の見通しが立つか、といった観点が強くなりやすい。
・オーナーは、最終的な納得感や引継ぎ後まで含めて考える
・仲介会社は、進行可能性や成約可能性、成約までの効率にも強く目が向きやすい
・オーナーは、一つひとつの条件の意味を重く受け止めやすい
・仲介会社は、全体をどうまとめるかという観点を持ちやすい
この違いは、どちらが正しいかという話ではありません。立場が違えば、合理的に見える行動が違ってくる、ということです。ただし、オーナーがこの構造を理解していないと、自分が大事にしたい論点が、交渉の中で相対的に・なし崩し的に後ろへ置かれていることに気づきにくくなります。
オーナーにとっての「後悔コスト」は、仲介会社よりはるかに重い
事業承継M&Aでは、成約したら終わりではありません。譲渡後に、従業員の離職が相次ぐ、想定していた投資が行われない、社風が合わない、約束していた役割が変わる、といったことが起きれば、オーナーにとっての心理的な負担は非常に大きくなります。
つまり、オーナーは、成約時点の条件だけではなく、その後に得られる納得感や達成感と、後になって生じ得る後悔の両方を背負って判断しているということです。この意味で、オーナーにとっての一件一件の重みは極めて大きい。
一方で、仲介会社は、構造として、案件を前に進め、成約につなげることへの意識が強くなりやすい立場にあります。加えて、担当者レベルでは、成約や売上計上に連動するインセンティブ報酬の比重が大きい場合もあり、それが案件を前に進め、成約に至らせること自体への強い動機になりやすい面があります。個別案件が重要であることに変わりはありませんが、オーナーが感じるような『自分の会社を誰に託すか』という種類の重みとは、同じではありません。そのため、オーナーにとっては慎重に見極めたい論点よりも、まず案件を成立に向けて動かすことが優先されやすい局面が生じることがあります。
そのため、仲介会社から見ると合理的な提案や進行ペースが、オーナーにとっては「少し急ぎすぎではないか」「本当にそこまで決め切ってよいのか」と感じられることがあります。ここでも、善悪ではなく、負っているものの違いが現れています。
だからこそ、仲介会社に任せれば安心、とは必ずしも言えない
仲介会社を使うこと自体が問題なのではありません。実際、買手候補へのアクセス、資料作成、条件調整、全体進行の管理など、仲介会社が果たす役割は大きく、事業承継M&Aの実務において重要な存在です。
ただし、オーナーが理解しておくべきなのは、仲介会社は「オーナーと全く同じ景色を見ている存在」ではないということです。立場が違えば、合理的に思える進め方も異なります。したがって、仲介会社に依頼したからといって、自動的に自分にとって最適な形になるとは限りません。
むしろ重要なのは、オーナー自身が、自分にとって譲れない条件を整理し、どの論点を重く見るのかを言語化し、そのうえで仲介会社と付き合うことです。相手に悪意がないとしても、こちらが何を大事にしているのかを明確にしなければ、交渉や進行は、どうしても「まとまりやすい方向」に流れやすくなります。
オーナーが最初に整理しておきたい論点
事業承継M&Aを進める際、オーナーは価格だけでなく、自分にとって何が重要かを先に整理しておいた方がよいでしょう。これが曖昧なままだと、相手の提案や進行のペースに引っ張られやすくなります。
・どのような相手に承継されるなら納得できるのか
・価格以外に、何を譲れない条件と考えるのか
・従業員、取引先、社名、拠点について何を重視するのか
・どのようなペースで進めたいのか
・第三者の意見を入れながら判断したいのか
このような論点が整理されていれば、仲介会社の提案を受けたときにも、「進めるかどうか」だけでなく、「どのような条件と進め方であれば納得できるのか」を考えやすくなります。結果として、単に案件に乗るのではなく、自分の判断軸を持ったまま向き合うことができます。
一回限りのオーナーは、繰り返し案件を扱う相手と向き合っていることを忘れない方がよい
ここまで見てきた構図は、ゲーム理論でいうと、一回限りの取引に臨むオーナーと、反復的に案件を扱う仲介会社とが、情報の非対称がある状態で向き合う場面として理解できます。オーナーは、まさに今回の決断におけるベストを追求しますが、仲介会社は、効率的に、案件の前進、成約、収益化を重視しやすい立場にあります。しかも仲介会社は、売手オーナーとの関係だけでなく、今後も案件を持ち込み合う買手候補、金融機関、他の関係者との反復的な関係も意識して行動しやすい。その結果、何も対処しなければ、各当事者が自分にとって合理的に動いた結果として、オーナーにとって望ましいとは限らない状態に案件が収れんしていく可能性があります。
オーナーは、自分が経験の少ない世界に入っていることを前提にした方がよいです。そして、相手はその世界に慣れている。だからこそ、依頼するかどうかとは別に、提案の意味、進め方の意図、急ぐ理由、買手候補の選び方などを、自分の頭でも確認しながら進める必要があります。
これは、仲介会社を疑うべきだという話ではありません。そうではなく、立場が違う以上、見ている景色が違うのは当然であり、その前提を踏まえて付き合うべきだということです。
構造を理解したうえで、仲介者の人となりも見極めたい
もちろん、すべての仲介者がこうした構造に無自覚というわけではありません。利益相反、情報の非対称性、繰り返しゲームの構造、成約や売上に連動する報酬体系が判断や行動に与え得る影響を理解したうえで、それでも自らの役割や使命に矜持を持ち、売手にとって何が望ましいかを真剣に考えながら業務を遂行している仲介者も多くいます。
だからこそ、売手オーナーにとって重要なのは、制度や契約条件だけではなく、実際に伴走する仲介者がどのような価値観と姿勢で案件に向き合っているのかを見極めることです。構造を理解していることと、そのうえでなお適切に行動しようとすることは、似ているようで異なります。
そうした仲介者が適切に選ばれ、評価されることは、個別案件における納得感だけでなく、業界全体の信頼と繁栄にもつながっていくはずです。
まとめ
事業承継オーナーと仲介会社は、同じ案件に向き合っていても、最初から同じ景色を見ているわけではありません。オーナーにとっては一回限りの重い意思決定でも、仲介会社にとっては繰り返し現れる案件の一つです。この違いがある以上、重視する論点や合理的な行動がずれやすいのは、ある意味で自然です。
したがって、オーナーにとって重要なのは、仲介会社に依頼するかどうかだけではありません。自分が何を大事にしたいのか、どこまで譲れるのか、どのような進め方なら納得できるのかを整理し、そのうえで、繰り返し案件を扱う相手と向き合うことが大切です。
仲介会社は、事業承継M&Aにおいて重要な役割を果たします。ただし、オーナーと全く同じ立場に立っているわけではありません。だからこそ、一回限りの自分と、繰り返しゲームを戦う相手の違いを理解したうえで進めることが、後悔の少ない意思決定につながります。